平塚界隈の昔
GREETING
八幡宮出現鎮座と当山が立った源
2012/11/7 長坂 建一

:1526年(大永6年:戦国時代:1533年スペイン人ピサロインカ帝国征服
:1541年 毛利元就が尼子晴久を破る
:1543年 ポルトガル船が種子島に鉄砲伝来
:1549年 松平竹千代「家康」今川氏の人質になる
:1553年 川中島の戦い・・・の頃)

この地域は、村里もほとんどなく、5~6戸の家だけで、伊豆や相模に抜ける脇道で、往来はあった。
そのころ、戸越神社に引っ越す前の行慶寺は、池の上の方にあった地蔵堂の近くの草庵「草木で結んで簡単に作った草庵(=修道者が静かに住む場所の総称)」だった。
その草庵には、行永法師(=信心篤い念仏行者)と名乗るお坊さんが住んでいて、念仏を唱える行者だった。
旅人の苦難をさとし、草庵のかたわらで、冬は旅人に、お椀に白湯(中身何も入っていないお湯)を、夏は、清水(=清き湧水)を入れ、喉を潤す接待を続けていた。
1526年 秋の初めの夕暮れ時、山伏の格好をした男が来た。
山伏「私は、東国を旅しているものですが、喉が渇いて困っております。お願いです、水をいただけませんか?」
行永法師は、草案の西北にある清水を汲んで来てあげた。
山伏は、お礼を言いながら「この水は、どこのお水ですか?本当の香りの良い水ですね」
法師「この地で湧き出ている水ですよ」
山伏「湧き出ている場所を拝ませていただけませんか?」
法師は、近くのその場所に山伏を案内した。山伏は、湧き出ている泉を拝みながら
「法師、あなたは、いままで良い行いを積み重ね、特に念仏修行を怠らず、長い間、いつも旅人に湯水を振舞って、人々や牛や馬を救ってきた。全ての神々にお願いして、法師にこの神水(清水)を与えてもらうことにしましょう。ほんとうですよ。決して疑わないでいてください。
近いうちに、ご神体が現れますよ、疑ってはいけません」と言い残して旅立って行った。
不思議なことで、同じ年の1526年(大永6年)8月15日の夜、晴れ渡った静かな夜空に向かって、泉の水が湧きあがって、土砂と水を全て巻き上げ、水中から一体の神像が現れました。
法師は、不思議に思って拝みながら見てみると、八幡大菩薩の神像でした。
法師は、この八幡大菩薩の神像を草案に安置し、敬って信心し続けた。近隣の人達も、往来する人達も、それぞれのお願いをしたら、叶わない願いは一つもなかったので、人々は、この廃寺を成就庵(じょうじゅあん)と言い伝えた。
その後、1606年(慶長11年:家康が将軍を秀忠に譲り大御所と称される)の頃は、繁盛の地となり、四方八方の野原まで人が増えた。
村里の区域を決めて道を造ろうとする人々多く、その上、江戸の南浦(海岸)の駅路(道路)の中ほどの村里になったため、江戸を越えてたことがはっきりする(=見える)村という通称から、戸越(とごえ)という村の名前になった。
池の上の杉の木は、神像出現の後に植えたもので、古木となり、伐っても若芽が出て、その杉の木は、1631年(寛永8年)のいまも生えています。大正年間(1926年)まで残っていました。
1635年(寛永11年:日本人の海外渡航・帰国禁止:参勤交代制度化
:1636年 日光東照宮完成)土地検地(土地を測定し、土地台帳に載せる)の時、神社の土地だから、土地台帳から除くということに決まり、1688年(元禄元年:将軍綱吉:長崎唐人屋敷着工翌年完成:柳沢吉保が将軍家光の御用人になった:井原西鶴「日本永代蔵」発表:英国では名誉革命あった年)12月15日 成就庵を東戸越5丁目に移し、神社再建した。成就庵があった場所は、一本杉八幡宮とした。
1908年(明治41年:翌年伊藤博文がハルピンで暗殺される:1911年西田幾多郎「善の研究」発表)11月18日 八幡神社の為に所有権登記する。
1914年(大正3年:第一次世界大戦:東京駅完成)11月18日 戸越八幡神社より個人に所有権移動登記される。

出典

「戸越の地名」編者戸越八幡神社宮司大石敏郎昭和55年12月30日発行
「一本杉八幡神社由来記」昭和31年 戸越八幡宮司 大石 筆書き

戸越の地名
2012/09/29 長坂 建一

昭和55年12月30日発行を現代文に書き換えました。
「八幡宮出現由来記」1631年に書かれたものを原本にしています。
草庵(1326年頃)→草庵に1526年頃 行永法師住みつく、八幡大菩薩神像出現
→草庵成就庵と呼ばれるようになる
→1605年戸越村の名前になる
→成就庵跡地に一本杉八幡神社祭る(1688年)杉の木は代々1926年迄残っていた
→行慶寺(1688年)・戸越八幡神社に至る変遷の歴史。

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東京府下平塚村大字戸越
2012/09/29 長坂 建一

大正13年(1914年)10月10日発行。
出典「戸越の地名」昭和55年12月30日発行
(編者戸越八幡神社宮司大石敏郎)掲載より。
平塚二丁目町会は、東京府下平塚村大字戸越字一本杉という地名でした。

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一本杉八幡神社由来記
2012/09/29 長坂 建一
昭和31年 戸越八幡神社 大石宮司 毛筆由来記を口語(現代文)表記しました。
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一本杉八幡神社の由来
2012/08/24 長坂 建一
平塚3丁目に鎮座している八幡神社由来文書が発見されました。
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木造平屋建てトタン葺き町会会館
2007/09/14 長坂 建一

昭和27(1952)年3月31日資料より。
土地60坪借地
懐かしい道具類
座机兼茶舞台大小4個
長方形茶舞台大小2個
手焙り火鉢   4個
秤・炬燵やぐら・謄写版

前の町会会館について
2007/09/14 長坂 建一

昭和37(1962)年10月29日上棟式。
木造二階建て57坪。収容人員60名。
懐かしい主な道具類
金屏風 1双
丸テーブル・角テーブル・黒塗卓10個・デコラ卓20個
ガスストーブ(S41.12.購入)電気炬燵(S42.12.購入)
瀬戸火鉢・ニューム火鉢・碁盤・将棋盤・算盤・電気掃除機・扇風機
木の学習机と木の腰掛(1968年寄贈)

平塚二丁目町会の沿革
2007/06/06 長坂 建一

昭和2(1927)年10月9日 池上電鉄が、雪谷駅から大崎広小路駅まで開通し、戸越銀座駅、桐ヶ谷駅ができて、戸越は益々発展した。
昭和7年10月1日ついに大東京市建設のため、郊外町村を東京市に併合する事となり、荏原町はそのまま荏原区となった。
荏原区会は、昭和11年に区議会の議決により、町会区域を定め、新しい町名および丁目を作ることになり、昭和16(1941)年4月1日から在来の各町会全区域に若干の区域変更を加え、新しく発足となった。

平塚二丁目町会の発足年月日 
昭和16(1941)年4月初代町会長 長坂 鶴続
品川区史(昭和18年6月3日)品川区内町会名及び町会長名一覧に、下記の通り町会名を定め、町会長就任したりと記述されている。

住居表示変更のとき町会名も、戸越、竹の台、中原と候補が挙がりましたが、当時の町会長 長坂鶴続氏の努力により、町の形も町会名もそっくりそのまま残され、現在に至っています。

当時戸籍係長として区側の担当者として会議に参加していた高橋久二さん(後の品川区長)は、話し合いは色々と困難を極め、町会名が列挙されたが、結論がでないうちに戸越の名が、他町会にとられたりして大変だったと話していたのを思い出します。

当時町会の中心にある戸越銀座商栄会は、雨が降ると水が溢れ、学校へ通うのにも長靴を履く状態。昔から住んでいる人が多く、のんびりとした町並でした。

昭和20(1945)年の戦災により、10軒たらずの家だけが残って焼けてしまいました。
私の家も、当時町会長だった父が、町会員の火災消火に当たっていて、荷造りしてあった家財道具を防空壕へ運び込む時間もなく丸焼けにしてしまったということもありました。

戦後の復興は目覚しく、昭和21(1946)~22(1947)年には、目抜き道りの場所には、バラック建ての家が連なっていました。

昭和22(1947)年、地主竹内さんのご好意により、町会会館が建てられ、町会活動が本格化した。
町会会館については、昭和37(1962)年木造二階建てが役員の皆様のご努力により建築され、更に平成16(2004)年鉄骨二階建て360平方メートルの近代的会館が建設され、町会の活動の拠点として、現在に至っている。

現在、平塚二丁目町会は、池上線と中原街道に挟まれ、戸越銀座商店街を真ん中に、区立京陽小学校を擁し、所帯数1100を有する町会で、戦前より住み慣れた人が多く、家並みの変化も少なく、細かい路地も多く、隣近所顔馴染みで、交通も便利、買い物もし易い、一度住んでしまうとなかなか離れられ難いところです。

就任年度 町会長名
昭和22(1947)年:新井 亮助
  24(1949)年:長坂 鶴続
  26(1951)年:落合 鶴吉
  27(1952)年:樋口 重蔵
  28(1953)年: 長坂 鶴続
  49(1974)年:野田 三実
  56(1981)年:米良 富
  62(1987)年:石川 博
平成09(1997)年:落合 昭
  16(2005)年:長坂 健一
  27(2015)年:志賀 勝

寄稿者 長坂健一

お稲荷さま由来
2006/02/10 長坂 建一

官幣神社(神社社格=大社・中社・小社・別社の四種類に区別)京都市伏見区深草町稲荷にある。
祭神は、倉稲魂(うがのみたまの)神、猿田彦命、大宮女(おおみやめの)命。
天明皇和銅年(711年)秦氏が北山城を経営したときに、鎮守神として、創祀したもので、山上(稲荷山:松茸の産地として名高い)の三箇所に祀られた。
山上に小さい祠(ほこら)が多く、全国信者の奉納した無数の鳥居が立ち並んでいる。
後、三條天皇以降しばしば行幸があり、後花園天皇永享10年(1438)今の地に鎮座京都市伏見区深草町稲荷にある。
稲荷神社は、稲穀の神であるとともに、仏教の守護神として、古くから朝野の尊崇篤(あつ)く、毎年二月の初午は、参拝者が夥(おびただ)しい。
杉を神木とし、これを「験(しるし)の杉」といい、狐を神の「使わしめ」と信じらられている。
大阪の玉造稲荷、宰相山稲荷、三河の豊河稲荷等も名高い。
出典:新修百科辞典 三省堂百科辞典編纂 執筆者250名 昭和九年発刊 定価拾円よりhttp://hira2.togoshiginza.net/photo/photo.htm

1967~1968年(昭和45年~46年)
2005/05/23 長坂 建一

平塚二丁目町会大運動会(下記写真左がプログラム)  
今から38年前の1967.11.15(日)9:00~15:00に荏原第一中学校校庭開催されましたよ。
住所(番地)で、白組(7.8.9)・赤組(17.18.20)・緑組(その他)に分けて競いました。
翌年は、荏原第二中学校校庭で開催しています。

品川区子ども会運動会:教育委員会主催 昭和45年10月25日(日)
浅間台小学校校庭で行われています。
対抗種目
男子騎馬戦(小学生15名+中学生5名)
女子リレー&男子リレー
10周競争(中学生と10代男子)

第四子ども会(=平塚二丁目)
お楽しみ会(写真中央) 昭和45年8月28日京陽小学校校庭で開催しています。 参加人員:子ども115名+大人12名
内容:連想ゲーム・言葉送り・クイズ・ジェスチャー・合唱・反対言葉     ハンカチ回し・リレーゲーム・歌合戦・ポーキホーキ・ゲーム

どじょう掴み大会(写真右)
京陽小学校地域委員主催(第一・第二・第三・第四子ども会合同)
昭和46年7月25日 500名参加で3000匹放流(反省会席上次回は、5000匹にという意見有り)

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平塚界隈の昔
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1526年(大永6年:戦国時代:1533年スペイン人ピサロインカ帝国征服:1541年毛利元就が尼子晴久を破る:1543年ポルトガル船が種子島に鉄砲伝来:1549年松平竹千代「家康」今川氏の人質になる:1553年川中島の戦い・・・の頃)この地域は、村里もほとんどなく、5~6戸の家だけで、伊豆や相模に抜ける脇道で、往来はあった。
そのころ、戸越神社に引っ越す前の行慶寺は、池の上の方にあった地蔵堂の近くの草庵(草木で結んで簡単に作っ草庵(=修道者が静かに住む場所の総称)だった。
その草庵には、行永法師(=信心篤い念仏行者)と名乗る坊さんが住んでいて、念仏を唱える行者だった。
旅人の苦難をさとし、草庵のかたわらで、冬は旅人に、お椀に白湯(中身何も入っていないお湯)を、夏は、清水(=清き湧水)を入れ、喉を潤す接待を続けていた。 1526年秋の初めの夕暮れ時、山伏の格好をした男が来た。
山伏「私は、東国を旅しているものですが、喉が渇いて困っております。お願いです、水をいただけませんか?」
行永法師は、草案の西北にある清水を汲んで来てあげた。
山伏は、お礼を言いながら「この水は、どこのお水ですか?本当の香りの良い水ですね」
法師「この地で湧き出ている水ですよ」
山伏「湧き出ている場所を拝ませていただけませんか?」
法師は、近くのその場所に山伏を案内した。
山伏は、湧き出ている泉を拝みながら 「法師、あなたは、いままで良い行いを積み重ね、特に念仏修行を怠らず、長い間、いつも旅人に湯水を振舞って、人々や牛や馬を救ってきた。全ての神々にお願いして、法師に、この神水(清水)を与えてもらうことにしましょう。ほんとうですよ。決して疑わないでいてください。 近いうちに、ご神体が現れますよ、疑ってはいけません」と言い残して旅立って行った。
不思議なことで、同じ年の1526年(大永6年)8月15日の夜、晴れ渡った静かな夜空に向かって、泉の水が湧きあがって、土砂と水を全て巻き上げ、水中から一体の神像が現れました。
法師は、不思議に思って拝みながら見てみると、八幡大菩薩の神像でした。
法師は、この八幡大菩薩の神像を草案に安置し、敬って信心し続けた。近隣の人達も、往来する人達も、それぞれのお願いをしたら、叶わない願いは一つもなかったので、人々は、この廃寺を成就庵(じょうじゅあん)と言い伝えた。

その後、1606年(慶長11年:家康が将軍を秀忠に譲り大御所と称される)の頃は、繁盛の地となり、四方八方の野原まで人が増えた。
村里の区域を決めて道を造ろうとする人々多く、その上、江戸の南浦(海岸)の駅路(道路)の中ほどの村里になったため、江戸を越えてたことがはっきりする(=見える)村という通称から、戸越(とごえ)という村の名前になった。
池の上の杉の木は、神像出現の後に植えたもので、古木となり、伐っても若芽が出て、その杉の木は、1631年(寛永8年)のいまも生えています。大正年間(1926年)まで残っていました。
1635年(寛永11年:日本人の海外渡航・帰国禁止:参勤交代制度化:1636年日光東照宮完成)土地検地(土地を測定し、土地台帳に載せる)の時、神社の土地だから、土地台帳から除くということに決まり、1688年(元禄元年:将軍綱吉:長崎唐人屋敷着工翌年完成:柳沢吉保が将軍家光の御用人になった:井原西鶴「日本永代蔵」発表:英国では名誉革命あった年)12月15日成就庵を東戸越5丁目に移し、神社再建した。成就庵があった場所は、一本杉八幡宮とした。
1908年(明治41年:翌年伊藤博文ハルピンで暗殺される:1911年西田幾多郎「善の研究」発表)11月18日八幡神社の為に所有権登記する。 1914年(大正3年:第一次世界大戦:東京駅完成)11月18日戸越八幡神社より個人に所有権移動登記される。

出典

「戸越の地名」編者戸越八幡神社宮司大石敏郎昭和55年12月30日発行
「一本杉八幡神社由来記」昭和31年 戸越八幡宮司 大石 筆書き